鎌倉市のなかでもいわゆる「旧鎌倉」と呼ばれるエリアに住んでいることもあり、毎年GWとはイコール「街を出歩かない期間」を意味する。コロナ禍以降は特に、普段の週末に外にランチを食べに行くのはほぼ無理だし(どこも行列になっている)、日中はクルマでの移動もままならない。季節は最高なこともあって、この連休のあいだは庭仕事をするか、裏山のトレイルや地元民に愛される材木座海岸といった近くの自然へ「避難」することになる。
ご存知の通り、こうしたオーバーツーリズムはいまや世界中で起こっていて、先週は、イタリアのベネチアで観光客から入場料として1日5ユーロ(約840円)を徴収する世界初の制度が始まっている。罰金は最高で5万円ほど、これを原資に「ベネチアの生活の質を向上させ、より安全で清潔に」することで「市民と観光客を幸せにしたい」と市長は表明している一方で、ベネチアを「売りに出す」ことに対して地元住民らの抗議デモもあるようだ。
これとある意味で対照的なのが、同じく先週、山梨県富士河口湖町のとある富士山の撮影スポットが、Instagramなどで世界的に有名になってあまりにも観光客が詰めかけることから、富士山の景色を幅20mの黒幕ですべて隠すことにした、という(驚愕の)ニュースだ(英語圏でも報じられている)。コンビニ前ということもあって、路上飲食やそのゴミ、隣家立ち入りや駐車問題など、近隣住民の被害が看過できないというのが理由だという。鎌倉住人としては、その惨状は想像できるし現地住人の方々に同情的になるけれど、それでも、もっと別のやり方はなかったのだろうかと思わずにはいられない。というわけでGWのニュースレターはこの「オーバーツーリズム」の脱未来化を考えてみたい。
鎌倉市でいま検討されている施策は主にふたつ、ひとつはパークアンドライドの実施で、これは京都を含めさまざまな日本の都市でも形態を変えつつ導入されたり検討されたりしている。パークアンドライドは例えば英国では1960年代から多くの都市で実施されているもので、基本的には街の外縁に駐車場を設け、そこで自家用車を降りて市中に向かう無料バスなどに乗り換えてもらうことで、街中にクルマを入れないことを意図している
「鎌倉七口」とも言われるように、海と山に四方を囲まれた旧鎌倉への通行を管理するにはたった7カ所を閉じるだけでいいという稀有な地理的、歴史的条件にあるこの鎌倉のパークアンドライドには大いに期待していたのだけれど、どうやら実施は海側の数カ所だけで、北鎌倉や朝比奈峠から鶴岡八幡宮へと続く山側は閉じないようだと知って、期待値を大幅に下げたところだ。
そもそもパークアンドライドはそのインセンティブ設計が重要になってくる。鎌倉市ではもうひとつの施策である「鎌倉フリー環境手形」と絡め、江ノ島電鉄(江ノ電)の駅近くに駐車場を設置することで公共交通機関の利用促進を目指しているようだけれど、同じように駅と絡めた施策を打つ京都を見ても、そもそも電車やバスよりも自家用車を選択した人々に対してどこまで有効なのかは疑問だ(それに、GWは江ノ電がパンク状態で地元住人が利用できないという別の問題がすでにある)。それよりも、無料のシャトルバスを発着させるとか、それでも市中に乗り入れるクルマには料金を課す、といった方法はどうだろうか?
シャトルバスについては、すでに地元住人として複雑な思いがある。もちろん、クルマで数十台分の人数がバス1台に乗るほうが渋滞は減るし1人当たりの二酸化炭素排出量の面でもベターかもしれない(EVバスになればなおさらだ)。だが、そもそも道が狭く入り組んでいる鎌倉に大型バスが何台も連なって入ってくることを歓迎している住人はいないだろう(通勤路である朝比奈峠の蛇行する山道を運転中に巨大バスとすれ違うたびにヒヤッとさせられる)。それに、大型バスが街中で駐車できる場所は限られていて、けっきょくはそうした駐車場をもつ一部の飲食店や寺社仏閣に団体旅行のお金が落ちていくだけの構造になっているのも問題だ。EVバスが街を行き交う景色が未来なのだとすれば、少なくとも鎌倉では再未来化が必要だ。
乗り入れ料金については、例えばロンドンの渋滞税をはじめとするロードプライシングの施策はかねてから世界中で議論され、実際に効果も上がっているようだ(日本でも60年代から検討されてきた)。ニューヨークでも米国初の試みとして今年6月から導入が決定している。オーバーツーリズム対策としては、値付けをどうするかがポイントとなってくるのだろう(安ければ余計に堂々とクルマの乗り入れを認めることになる)。物理的な仕組みであるパークアンドライドと違い、ロードプライシングではセンサーによってナンバープレートを検知するシステムを組めばいいので、反対派にセンサーカメラを壊されるというリスクを別にすれば、導入コストや費用対効果が期待できるはずだ。
では、ロードプライシングでの収入を何に使うべきだろうか? 「ベネチアを売りに出すな」と反対する地元住人たちは、住人へのサービスや住宅供給を増やすことを要求しているという。実際に、観光地人気にあやかってAirbnbをはじめとする民泊需要が高まり、結果として不動産価格や賃料の高騰を招くことで昔ながらの住人が住み続けられなくなるジェントリフィケーションは世界各地で起こっている。ニューヨーク市では昨年9月に民泊を厳格に規制する新法が施行されたが、これはいたちごっこになるかもしれない。かつて2010年代にはロンドンやニューヨークでのブックフェア出張のたびにAirbnbを利用していた身としては、日本の民泊規制に当初はうめき声を上げたこともあったけれど、いま振り返れば、こうして鎌倉にまだ住めているのは(ニセコのような)ジェントリフィケーションが起こっていないからだと言えるかもしれない。
これはライドシェアについても同様で、UberやLyftのようなライドシェアサービスが、ドライバーや利用者を増やすことでかえって渋滞を悪化させている事例はいくつもある。ニューヨークの渋滞税もその文脈だとも言えるだろう(勘違いしやすいのだが、カーシェアは渋滞を緩和する効果が確認されている)。日本ではライドシェア規制についても規制緩和の声が多くあり、ぼく自身もそうした未来を待ち望んでいるけれど、都心や観光地などでの運用については別途検討が必要だ。
2012年にレイチェル・ボッツマンの『シェア』の邦訳版を手掛け(原題は『What’s Mine is Yours』)、当時まだ「シェアリングエコノミー」といった言葉すらなかった時代に、ニューエコノミーの到来を垣間見た身としては、場所性(placeness)に代表されるような物理的アセットの希少性に根ざした経済から、デジタル情報の潤沢さを活用する経済への移行が、同時に渋滞や観光地のジェントリフィケーションといった新たな「潤沢さの弊害」を生み出すことになるとは、当然ながらそのときには想像すらできていなかった。
潤沢さに根ざしたニューエコノミーへの移行はまだまだ始まったばかりであり、社会のあらゆる仕組みや制度はまだ適応の仕方を模索している。予期しないさまざまな弊害として今週のSZメンバーシップでは、再生可能エネルギーという潤沢なエネルギーである太陽光発電を使った揚水によって地下水が世界的に枯渇しつつあるという記事も上がっている。今後、空間コンピューティングが進み、モノと情報がますます重なる時代に(今週のSZにこんな注目記事もある)、例えば各地で進む観光地のデジタル化/デジタルツイン化はいかなる風景を生み出すだろうか? それがオーバーツーリズム解消につながることに、ぼくは賭けていきたいと思っている。
『WIRED』日本版編集長
松島倫明
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2024-05-03 22:00:00Z
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