『きみのお金は誰のため』の中にも、主人公たちが学費で困っているシーンがある。
うらやましがる優斗に、兄は荷造りの手を止めて、あきれた顔を向ける。
「お前さあ、そんな気楽じゃねえよ。大学卒業したら奨学金も返さなきゃいけないし」
「奨学金って借金なの?」
「そうだよ。俺がもらうのは、将来、返さないといけないやつだからな」
「それって、いくらなの?」
「300万円」
「マジかあ……」
その金額に驚いて、優斗は天井を見上げた。
(中略)
優斗は愚痴をこぼしたが、それこそが擬似的な贈与だとボスは教えてくれた。
「お兄さんは、大学の先生に教わるけど、先生のために働いて返すわけやない。社会に出てから、お金を稼いで、奨学金を返す。そのお金を稼ぐときに、未来の誰かのために働いているんや。次の贈与が起きている」
(『きみのお金は誰のため』172ページ)
単に”大卒資格を得る”ためだけに大学に行くのなら問題だが、大学で学業に専念してそれを社会に還元してくれるなら、国が学費を全額負担することを考えてもいいのではないだろうか。
少子化が進むと「お金を使う場所」自体がなくなる
“子育て支援”という話題になると、「子どもを持つ世帯VS子どもを持たない世帯」という構図になりがちだ。
しかし、子どもが育たなくて困るのは、老後を迎える人すべてである。誰かの子どもたちが働いてくれるから、お金を使うことができる。
少子化が止まらなければ、十分な物やサービスを手に入れることができなくなる。繰り返しになるが、お金がその価値を発揮するには、働く人々の存在が必要不可欠なのだ。
明治維新のころは、西洋に追いつくべく人材育成に力を入れていた。その結果、日本は世界の列強に肩を並べることができた。
ところが、現在では諸外国に追い抜かれてしまった。
財源を理由に、人を育てることをいつまで後回しにするのだろうか。
現在推し進められている資産所得倍増計画についても、「NISAを利用して自己責任で老後の不安に備えてくれ」というメッセージにも受け取れる。
たしかに、金銭的な不安が競争原理を働かせ、社会を成長させるという側面もある。しかし、それはお金を得る目的の競争においてのみ有効だ。
金銭的な不安によって、学業に励むことや子どもを産み育てることが困難では、社会全体が沈んでしまうのではないだろうか。
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2024-06-01 02:30:00Z
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